現象を説明するにあたって先ず二つの方向がある。一は物概念による説明であり、他は関係概念による説明である。物概念と関係概念とは思惟の方法或いは思惟の理念における二つの根本的な方向を現わしている。そして古代的思惟から近代的思惟への推移は、物概念から関係概念への推移であるということができる。
物とは何であるか。物は一定の性質、一定の量を有し、また一定の関係に立っている。性質や量、関係等は物そのものでなく、物に附帯してあるものである。物とはそれら性質、量、関係等の基底に横たわるものである。かようにその基底に横たわるものは哲学上の言葉で実体といわれる。物概念は実体概念である。実体は性質等が変化してもつねに同一にとどまると考えられるものである。アリストテレスに依ると、実体とは「第一次的な存在」である。性質とか量とかの範疇で現わされるものはそれ自身において独立に存在するものでなく、実体に附帯して存在するに過ぎぬ。性質とか量とかは実体があって初めてそれについて語られるのであって、実体は性質、量、状態、関係等よりも本性上より先なるもの、第一のものである。実体概念によって考えるというのは、このように第一次的な存在が何であるかを明かにすることであり、実体とこれに附帯するものという秩序において考えることである。かような考え方は我々の自然的な考え方、日常的な世界像に一致している。そして認識論上の模写説がまたかような自然的な考え方に一致しているのである。認識が模写であるというのは、どのようなものの模写でもが認識であるということでなく、物の実体的本質の模写が認識であるということでなければならぬ。例えばプラトンに依ると、真の知識はただ真の存在(彼のいうイデア)についてのみ成立し得るのであって、これに反し存在と非存在との混合である現象の世界については単に意見があり得るのみである。
ギリシアにおいて形成されたいわゆる形式論理において、概念とはかような物の本質、実体を現わすものである。概念は我々の感覚に与えられた個々の特殊的なものから、それらに共通に属するものを取り出すことによって作られる。その場合思惟の機能は感覚の多様なものに対して、主として、比較すること、区別することである。特殊的な対象の間を往来する反省は抽象作用に導き、これによって特殊的な対象における類似の要素は他のすべての類似ならぬ要素の夾雑物から解き離されて純粋にそれだけとして抽出される。概念は感覚的実在に対して無関係なものでなく、この実在そのものの一つの部分をなしている。それは感覚的実在のうちに直接に含まれているものが抽出されたにほかならぬ。